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浜っ子道場136「お茶と蘭字」

1859年の横浜港開港と同時に始まった貿易。
第一の輸出品目は生糸でしたが、それに次ぐものが、お茶でした。
1860年代は、お茶の生産量の半分以上の3000~4000トンが輸出され、
輸出総額の10~20%を占めていたのだそうです。
輸出先は、イギリス、アメリカ、ヨーロッパ諸国、上海、香港。
イギリス向けはアメリカに再輸出されたので、最大の市場はアメリカでした。
そして1874年(明治7)には紅茶の輸出が開始され、
明治政府は、1876年(明治9)、静岡県出身の多田元吉らをインドに派遣し、
紅茶の製造法を研究させ、1878年(明治11)には、静岡、福岡、鹿児島、東京に
紅茶伝習所を設置し紅茶製造の普及をはじめました。
ところが、安く品質の高いインド紅茶との競争に直面し、
新たな紅茶産業を日本に根付かせることはできなかったのだそうです。

日本は長い鎖国で、世界の茶の情勢や商況に疎かったため、
お茶の貿易自体は、開港当時からスミス・ベーカー商会をはじめ、
外国商館が一手に仕切っていました。その当時の日本の茶の輸出の80%以上は、
横浜や神戸の外国商人に牛耳られていたのだそうです。
横浜の茶貿易をまとめ育て上げたのは、横浜商工会議所会頭の大谷喜兵衛。
1880年(明治12)、茶業の振興を図ろうと大谷は、横浜で伊藤博文、大隈重信らと共に
製茶共進会を開催。その後、彼の功績によって最盛期を迎え、
1896年(明治28)直に貿易が出来るようになり、横浜茶貿易は本格化したのでした。
又、港には再製工場が造られました。再製とは、お茶を輸出する際に、
茶葉が長期の保存にたえられるように再度火入れして乾燥・整形することで、
横浜でも作られたようですが、徐々に、お茶の産地である静岡に
外国商社が移るとともに再製工場も移っていったのだそうです。

そして日本の輸出用のお茶には、「蘭字」というラベルが貼られていました。
蘭字とは「西洋の文字」の意味ですが、横浜や神戸から積み出された緑茶梱包には
アルファベット文字入りの華やかな木版多色刷りラベルが貼られていたました。
商標や等級を示す、欧文ロゴは当時最新の書体が使われたものもあり、
外国のデザインをそのまま取り入れたもののようですが、
これに浮世絵の職人が、花鳥や美人風俗などの絵柄をあしらい、
極薄の木版画に刷り上げ、和洋が合体したデザインが完成しました。
日本髪の女性や富士山などさまざまな日本の風物を描いた図柄に
「JAPAN TEA」の文字が刷りこまれたもの。
当時、欧米ではこうしたカラーの印刷物は大変珍しく、
色鮮やかで繊細な描写の蘭字はジャポニズムの版画として、
お茶とともにもてはやされたのだそうですよ。
一説には、フランスの画家モネが浮世絵に興味をもつきっかけとなったのも
蘭字との出会いであったと言われているのだそうです。

お茶は、日本の文化を広める役割もしたといえるのかもしれません。

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