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浜っ子道場142「掃部山公園」

この秋、2回ほど彦根に行ってきました。
彦根城では残念ながらひこにゃんには会えなかったけど、
琵琶湖を見下ろす、国宝彦根城は美しく、面白いつくりの櫓もあり、
とてもいい所でしたよ。彦根と言えば、彦根藩井伊家35万石の城下町。
そして日本の歴史を大きく動かした井伊直弼を思い出す人が多いでしょう。

横浜にもなぜか、井伊直弼の銅像があります。
安政の大獄で、反感を買っていたこともあり、
彦根以外に銅像が見られるところは、あまりないのではないでしょうか。
その場所は、桜木町駅から紅葉坂を登っていったところ、掃部山公園。
もともとは、明治時代、鉄道建設のために来日した外国人技師たちの官舎があり、
「鉄道山」と呼ばれていたところでした。

井伊直弼は彦根藩第11代藩主直中の14男。養子の口も無く、
17歳から32歳までの15年間、自らを花の咲くことのない埋もれ木にたとえ、
埋木舎(うもれぎのや)と名付けた住宅で、世捨て人のように暮らしていました。
茶道を学び、和歌や鼓などを学んでいたことから、茶・歌・鼓で、
「チャカポン」とあだ名がつけられていたのだそうです。
ところが、13代藩主の座につくことになり、時代は黒船を迎えようとしていたころ、
幕府は、将軍後継問題に揺れ、1858年(安政5)に
井伊直弼は大老に就任することになります。政策を断行、
勅許を待たずに「日米修好通商条約」に調印、
攘夷派の志士たちを弾圧した「安政の大獄」。
そして1860年(安政7)、登城途中、江戸城桜田門外で水戸浪士ら18名の襲撃を受け
この「桜田門外の変」で46歳で世を去りました。あっという間の出来事ですね。

それから20年ほど後の1882年(明治15)頃から、
旧彦根藩の士族たちが、井伊直弼の記念碑建立を計画します。
その地として鉄道山が買収され、井伊家所有となり、
「井伊掃部頭(かもんのかみ)」に因んで「掃部山」と呼ばれるようになりました。
記念碑は正装に身を包んだ井伊直弼の銅像で、
横浜開港50周年記念の1909年(明治42)に除幕式が行われました。
ところがこれは、旧攘夷派の流れを汲む人々らの圧力によって中止を命じられ、
それを無視して除幕式を断行。一夜のうちに井伊直弼の銅像の首は
切り落とされてしまったのだそうです。そして戦時中の1934年(昭和18)には
政府の金属回収によって銅像は取り払われてしましました。

現在の銅像は1954年(昭和29)に再建されたもの。
台座部分も含めると高さ11m。設計したのは、赤レンガ倉庫やなどを設計した妻木頼黄で、
この台座だけは、当初のままなのだそうですよ。
井伊家所有の掃部山は、1914年(大正3)に庭園部分と銅像を含めて
井伊家から横浜市に寄贈され、掃部山公園として開園しました。
掃部山公園は桜の名所で、また井伊直弼がお茶の道に通じていたことから、
夏には「虫の音を聞く会」という茶会がひらかれています。
そばには横浜能楽堂もあり、横浜の中でも日本文化が楽しめる風流な場所になっています。

開港され、横浜が発展することになったきっかけをつくったのは井伊直弼。
幕末の動乱の後、銅像になってからも、襲われてしまったわけですが、
今では、青年時代に興じた日本の文化に包まれて、
横浜の港を眺めているわけですね。

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