浜っ子道場155「日月桃」
横浜で、桃を生産していたことがあったのだそうです。その場所は綱島。
早淵川と矢上川が鶴見川に注ぎこむ綱島では、激しい雨が降ると、
洪水を起こり、そのたびに農作物は大きな被害を受けていたのだそうです。
明治30年ころ、川崎から綱島へクワイの苗を売りに来た行商人が
水害に悩む農民たちの状況を聞き、水害に強くこの地域の砂質の土壌に適した
作物として桃の栽培を勧めたのだそうです。
その当時は、果肉のやわらかい西洋桃が好まれるようになってきた頃で、
当時の北綱島村名主、池谷道太郎(いえのやみちたろう)は、
植物学者を通じて西洋桃の苗木を数十種取りよせて栽培を試みたところ、
明治40年、ついに新品種を発見。病害に強く六月中旬より収穫でき、少面積で、
米代金の三倍強の収益をあげることができる新しい桃は、
「日月桃」(じつげつとう)と名付けられました。
桃は安定した収入が得られる作物として、道太郎は近隣農家にもその苗木を分け、
綱島村全域に広がり、市場でも味香りがよく評判で、綱島のブランド品として定着。
明治43年には綱島果樹園芸組合が創設され、桃栽培は盛んになりました。
その後開業した東京横浜鉄道(現東急電鉄)には桃を運ぶための引込線まで作られ、
「綱島の桃」は全国に出荷されるようになり、
「東の神奈川、西の岡山」と言われるほどとなりました。
大正11年7月の東京博覧会で銅牌を受賞して以来、
綱島の桃は、数々の品評会で多くの賞を独占し高級果物店が競って販売。
昭和6年頃には、24万箱、約288万個の桃を生産・出荷するまでになり、
この頃、神奈川県の桃生産高が岡山を抜いて日本一となったのだそうです。
ところが昭和13年と16年、2回の大きな洪水が起こり、桃は大きな打撃を受け、
多くの農家が桃の栽培を断念。また、太平洋戦争が始まると、「嗜好品の桃より
米や麦を作れ」という軍の命令もあり、桃の栽培は次第に減少していきました。
終戦の後、果樹園芸組合も復活し、地場産業として桃を復活させようという機運も
盛り上がったものの、戦後日本の工業化、都市化の流れの中で工場が進出。
また、綱島温泉の温泉旅館が次々開業。土地は売られ、桃農家も減少し、
昭和40年代には、桃栽培の創始家池谷家の畑を除き、
桃農家はすべてなくなってしまいました。
現在、池谷さんのお孫さんが、約50本の桃の木を育てているのだそうですよ。
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